とりあえずクルツワードと軍医のファーストコンタクト話。基地の構成をまとめておく意味でもチマチマ置いときます
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夜半から降りはじめた雨は、次第に大粒になっていた。雨粒がぱらぱらと窓や屋根を敲く音をグラムグナッシュ軍医伍長は気に入っていた。只聞くだけの、夜の雨はいいものだ。昼間の雨は悪くないが、外出が億劫だ。彼は何であれ、もっぱら感傷的な要素を孕むものを好んでいた。そのことに彼自身も気づいている。
聖パロメ・西側正教の神父を祖父に持つ彼の実家は、鬱屈した厳格さが常に霧となって空気を満たしていた。日曜日のミサで焚かれる香、仄暗く燈る蜜蝋の匂いを今でも覚えている。カトラーゼ(国立少年学習院、街に1つあり、13歳までの子どもたちは義務として週6日ここへ通った、もちろん彼も例外ではない。)の鞄を持ち、白の簡素なシャツと黒の5分丈の折り目の付いたズボンに黒光りする革靴、青灰の髪を母親に撫で付けられ――そう、あの頃自分の頭髪は今ほど悪目立ちする鮮やかな青ではなかったのである……高等学校に上がった頃から、くすみの要素が抜け、全体にわずかに緑味がかった鮮やかな青を示し、代わりに美容院の鋏で切断された部分から数センチ、その部分がまるで灰色を集めたように褪色し始めた。前世界こと、古クロネア千年帝国時代の階級を示すDNAの発動だと、皮膚科の医師は見飽きたようにそう言った。最早現代では何の意味も成さないはずのそれはしかし、元々の彼の家系の奇妙な紅桃の瞳孔、浅黒い膚と相まって、級友の中で彼を孤立させるに難くなかった。
そういったたぐいの些細な事象が幼少時より降り積もり、彼の精神は健康的とは今でも言えない。
軍医伍長は顔を上げた。少し尖った嘴を思わせる形状の唇に煙草が挟まり、湿気た空気に触れてちりちりと微かに酸素を燃やす。一時廃れた紙巻き煙草は、医療品としての処方により復権し始めている。この部屋の空気には、彼が吸い続けた廃勢抑制燻剤の残りかすが漂っているのだろう。キルチェ=トワ=アンジェラ二等兵に思いを馳せた。彼女は平素から元気にここへ入り浸っているが、この部屋の廃勢抑制剤はそれに加担してはいないだろうか。躁の人間に処方するとただのアッパーになる。
後方へ背伸びをすると、椅子がぎしりと思った以上の大きな軋みを上げた。
司令官への報告書はまだ1頁も書けてはいない。そもそも報告する事象が、ないのだ。誰が誰を監禁しているだとか、誰が爆薬を独自に調合し、隠し持っているだとか、誰が訓練に参加しないで眼球のコレクションの世話を焼いているとか、そういったことが日常として受け入れられているここ特務部――フリークス・ラウンジでは、細かいことをそうして上げてゆくときりがないし、それを大前提として集められた狂人のおどり場である。事実を知りたければ現場を視察すればよい。文字にすると酷く異常なことに思えるが、それが非常に自然な状態であることが解るだろう。空気中の酸素の部分に変わりに窒素が入っていたとして、もちろん人間は暮らせないが、それの見た目は何も変わらず澄んでいるのと同じことだ。
そもそもの報告書にしても、軍医が出してどうするものでもない。新しく来た太った眼鏡の司令官は、ここを精神科の病棟くらいにしか思っていないのだろう。一番脳みそが正常そうな――要するに普通の自分に声を掛け、週の報告を頼んだ。彼は訓練の監視しかしない。点呼も取らない。給料だけを他の倍ほどもふんだくり、手のかかる新兵訓練を抜けて万々歳だろう。しかし彼はここがフリークス・ラウンジであることを理解できていない。いずれの日にか、それを悔やむときが来るだろう。
グラムグナッシュはアルミプレートのシンプルな灰皿で煙草をもみ消し、お気に入りのマットなローズピンクのオイルライターと携帯灰皿兼用の白いシガレットケースを白衣のポケットに仕舞い込んだ。そして椅子から立ち上がり再び伸びをした、今度は上方向に。医務室のドアへ近づき、思いなおして透過機を机に置き去る。見た目に反してごく軽いそれは、大概私室以外でいつも彼の頭にあったが、それは医務に忠実というだけではなく頭髪と瞳の強過ぎる印象を人目から逸らす目的もあった。廊下へ降り込む雨がぱちぱちとドアを敲いて彼を急かす。今行くよ、と口の中でぼそぼそと返事をしてグラムグナッシュは靴音を早めた。
2.
无飛龍は鐘堂の釣鐘の横に座っていた。釣鐘は雨に打たれほんのささやかに震え、内部にくぐもった音を篭らせていた。長身の痩躯は堂の一部と成り果てて久しい。雨に煙る深夜の隔離軍用居留地は、色彩を失い、墓地のように濃密な灰色を漂わせている。眼下に広がる樹海の先に本部施設のトリニティタワーが見える。赤い誘導灯がまたたき、その遥か向こうに時折雷鳴がひらめいた。
叩きつける雨はどんなに力を込めようとも彼の体には届かない(背中で纏められた長い髪をほんの少々湿気らす程度である)。それは彼の各関節に貼られた変換護符のためだ。雨粒は無に還元され、水が孕んでいた陰の要素は吸収されて護符から彼の体の命脈に送られた。无夏龍の組んだ結界理論を一部拝借して、エネルギー変換用に組み替えた札だ。くちゃくちゃとパッションフルーツ味のソフトキャンディを嚙みながら、両の膝を立て、獲物を待っていた。口内の温度でやわらかくなったキャンディは奥歯で噛み締めると熱を持ち、同じ砂糖でも粉砂糖を口に入れた瞬間は冷たく感じるのに、不思議なものだなと思った。
飛龍の指先は横に置かれた狙撃用機銃を辿った。自分専用に技術研究室と自らが戯れに改良を重ねたそれは傍から見ると愛機と言ってたがわないだろうが、无飛龍にその概念はなかった。銘もない。兵器は、ただ使えればよい。操るのは自分だ。その考えは无夏龍にも共通していた。ただし夏龍は長年――それこそ数百年単位で連れ添った短槍を使い勝手という観点からそうそう手放すことはしないのだろう。その点で明白な違いがある。自分にとっての兵器は弾丸、札、エネルギー同様に使い捨てに等しい。目の前の敵を討つのに、銃を選べなかったというだけで仕留め損ねるのは大きな愚行だ。
彼は下を向いて甘い息を吐き出した、気温を見るためだ。息は白くない。雨の空気は、直接雨粒に当たっていない自分にも精神的に作用した。
そのとき神経の端が張り巡らされた感応結界に呼応して、調眼が自動的に一人の男を一瞬のうちに見出した。男はがさがさと頭をかき回し、濡れた廊下に降り込む雨を避けるようにして壁際を歩いた。軍医伍長である。彼のことはそれなりに気に入っていた、他の連中と比較しても。彼がここへ来てから何度か会話も交わしている、非常にまともな人間であるのは解ったし、それでもここへ引き寄せられる程度の要素を孕んでいた――軍医自身はその頃、それに気づいていなかったようだ――のも解った、恐らく今雨天の深夜の散歩を決め込もうとしているのもその関係で神経が苛立っている証拠だろう。他のフリークスを見ろ。彼らの深夜徘徊と軍医の深夜徘徊、何の違いもない。もっとも今夜はこの雨である、皆一様に聖堂に集って思い思いのことをしているのだろう。古い古い聖堂は、この鐘堂の真下にあった。大層な高さと暗い存在感を放つこの旧教会は、フリークス・ラウンジの拠点であった。枝分かれした堂、迷路のように上下へ伸びる回廊、いくつもの隠し小部屋、そのうちの1つの神父の控え室を自分はコレクション用に拝借していた。鍵をかけているので荒らされる心配もない。それでも自分の所業に不満を覚え無理矢理に入ろうとした者も以前いるにはいたが、その眼球も押し頂いて終わった。隊内での参謀役であるMMR−MURに次ぐ地位を力ずくで獲得してから、もうそのような無謀者はいない。
飛龍は何とは無しに溜息をついて、ポケットを手探った。ポケットにはいつも断熱パッケージに入った何らかの駄菓子が放り込まれている。パッケージを開き、チョコレートで包んだキャラメルを取り出した。口に放り込んだとき、別のものを感知した。
――来た。
雷鳴に隠れて、連中がやって来た。今夜は3人。樹海の陰でトビネズミのようにすばしっこく、黒くて軽そうなスーツに身を隠して……これは何かの仕掛けがあると見ている。暗部として訓練された動きだが、そうだとしても、通常の人間の体にあのような動きはできない。以前捕らえた(というより、嬲り殺した挙句食人趣味のフリークス連中が一部を食らい、残りかすは本部のどこかへ消えた)捕虜の体には改造の痕跡はなかった。本部技術室に提供してしまったが、スーツに仕掛けがあるとしか思えない。現在研究中のRAFシステムのような、アンチグラビティ系の要素を感じる動きである。恐らく、着地の一瞬に強く作動し、海面を走るトビウオのように、緩い円弧を描き滞空し再び着地する。そのようなものだろう。
どちらにせよ、相手は暗部である。しばしば入り込む下ッ端の斥候とはわけが違う。相手に取って不足はなし、うまく仕留められればそれなりの情報の詰まった眼球を手に入れる事が可能だろう。相手側はクルツワード・スチュウェインズの事で頭がいっぱいで、鐘堂の方などに気をくれもしないのだ。初撃で1人を射止めることくらいは訳はない。問題は、その後だ。残り2人は敏捷に動くだろう。撤退を図るか、それとも自分に向かってくるのか定かではない。暗部2人を直接、近接戦闘で相手をするのには少々自信がなかった。念のため、移動結界を布陣してある。无夏龍なら違うのだろう、彼は自分と同じ无一族でさえも、一度に数人を相手にできる力を持っている。それは当然のことで、彼は殲滅の為に作られたのだ。自分は違う。陰から見つめ、情報を引きずり出すことが専らの役目だ。无夏龍のように力強い直線を描く力は備わっていないが、誰にも追う事のできない歪曲を、自分は持っている。
无飛龍は舌なめずりをして射程距離に入るのを待った。
3.
クルツワード・スチュウェインズ一等兵はベッドに丸まっていた。ここ最近は一日の大半をそうして過ごし、夕暮れになると食事を求め徘徊した。数年間を過ごした部屋は居心地の良い古みを帯びており、隅に張る埃の掛かった蜘蛛の巣さえも、美しい装飾品に見えた。マットレスに虱が涌いて監察官にこっぴどく叱られて以来、週に一度掃除婦が来てベッド周りだけは清潔にして屑篭を空にして帰る。それでも、妥協しているのだ。本当は誰にも触れさせたくないし入れたくもない、そして多分、誰も入りたくもないだろう。
胚芽クッキーのぼそぼそとした粉が落ちた。チョコレート色のシーツの上を簡単に払って、クッキーの空箱を甘ったるい匂いが染み付いた屑篭に投げる。まだ口を動かしながら、クルツワードは雨の降りしきる窓辺を見つめる。綿の裏布のついた毛布は心地よく膚になじむ程度に古びており、それにくるまったままこれからどうすべきかを考えた。クッキーがもうないのだ。できれば今夜中に手に入れたい。願わくば、チョコレートチップとジンジャーのものを。スーパーマーケットに行けば簡単に手に入るのは解っている。しかし、この雨の中を移動するのは気が進まない。傘はあまり好きではないのだ。あれは自分には一種の武器である。振り回したり突いたりする分には楽しい。しかしただ単純に雨を避けるだけでは、なにも面白くなどない(本来の用途であったとしても)。
窓を開けてみた。古い観音開きの二重出窓は、少し力を篭めなければ開かない程度には重い。馬鹿力の自分がそうなのだから、通常の少年少女の腕力では開く事はできないのだろう。部屋のドアもそうだ。その向こう側にいるであろう人間に向け鉄球をぶつけて何度か壊した鉄扉は、それでもそこにある。鉄球に耐えうるのだから重いのに違いない。クルツワードには解らなかった。手がつけられないくらい暴れるとき、誰も自分を縄で縛ったり手錠をかけたりはしなかった。強力な柔軟性を持ったゴムの拘束衣、もしくはピンワイヤで処理される。鉄は曲げれば仕舞いだが、ワイヤは肉を切った。痛いのは好きではないので、クルツワードは動くのをやめる。最初にこの対処を見出したのは現在のフリークスの長であるMMR−MURである。その話を面白がった何人かの監察官と憲兵が、レザーワイヤを持ち出してクルツワードを縛ってみようと試みたが、一瞬の隙を突いてクルツワード・スチュウェインズの犬歯は相手の鼻や目、頚動脈を引き千切った。鼻は整形外科で直せても、心の傷は簡単には癒えない。クルツワードはより一層の畏怖と警戒を持って扱われることとなるが、他のフリークスに言わせると、敢えて手を出したほうが悪いのだ。ライオンに手を出すハイエナはいない。ましてや、ハイエナほどの力も持たない人間に何ができよう。
クルツワードのいる棟は、フリークスの居留地でもはずれの位置にあった。犠牲者を少なくするためだ。煉瓦造りの渡り廊下が聖堂へと続き、そこを伝って歩けば雨に濡れないし、聖堂の誰かがクッキーやそれに近い食べ物を持っているかもしれないと考えた。そこでクルツワードは起き上がり、LLサイズの軍服をワンピース代わりに頭から被る。服のたるみを制限するためにあちらこちらにベルトを締め、ナイフの仕込まれたブーツに脚を突っ込み、チェシヤと名づけた鉄球の鎖を左手首に固定した。これでいつものクルツワードができあがる。髪は面倒なので結ばなかった。出入り口付近にかけてある鏡に向かってにっこり笑い「おはよう」と言った。今日の自分は、機嫌は悪くなさそうに見えた。
鉄扉を蹴り開けて廊下に出ると、雷鳴が閃いた。墓標のように、本部施設のタワーが真っ黒に突っ立って見える。歩き出してすぐに、无飛龍の調眼が自分を捉えたのを察知した。彼は立場をわきまえている。というよりも恐らくは、自分に興味がさほど無いのだ。やろうと思えばできるはずだが、四六時中監視するようなことはないし、砂場の子供に目を配る親と同じ、保護的な意味合いを持った視線であるので、クルツワードはそれを咎めたり嫌悪するでもなく、放置していた。
再び稲妻が走り、轟く。
悪くない空気だ。
だがそのとき、雷鳴に重ねて射撃音が響いた。偶然ではなく、隠すためにわざと重ねられたのだ。射線がずれて当たらなかったが、クルツワードは辺りを睥睨した。気配に気づけなかった。雨の空気は匂いも音も消してしまう。続いて閃いた稲光に、影が浮き上がる。サイレンサー付きの機銃の掠れた音も遠くで響いた。サイレンサーの意味がないほどの高出力で、无飛龍は何を狙撃したのか?答えは目の前に転がった。背中の皮がスーツごとめくれ上がり、焼け焦げた状態の男が一人、屋根から墜落してきた。厚いマスクで覆われて顔は解らないが、大きく踏み壊した床のように、肋骨の飛び出た背は、もうそこに正常な鼓動を打つ心臓などないことを証明していた。
クルツワードは顔を上げた。こま落ちのように、2人の人間がいつの間にか周囲を囲っていた。そのうちの一人は常連である。暗部のくせに、長い三つ編みを蛇のようにうねらせて引き締まった体躯をスーツに収めている。金の目はまっすぐに、何か言いたげな色をしてこちらを見ている。もう一人はクルツワードの眼中には既に無い。无飛龍が動くのを察知したからだ。取り囲まれても、クルツワードは動かずただ鉄球を手繰った。手甲のナイフも出してある。どの方法で、どこを狙えばよいのか大体は理解している。後は運と本能がいつも味方する。
4.
軍医伍長は立ち止まった。雨の飛沫で硬めの癖毛がやや膨らみ、湿気た風に煽られて乱れる。冷たい夜風は心地よかったが、当て所ない散歩にはいささか寒すぎた。首に巻いた古いウールのストールを巻きなおす。煙草は湿気た空気にやられて火がつかない。諦めて白衣のポケットに仕舞う。突っ込むとき、袖口のあたりがポケットの縁に引っかかって切り傷が鋭くシクリと痛んだ。顔をしかめるでもなく、軍医は手首に巻かれた包帯を眺め、再出血していないかを確認した。最近の自分はどこかおかしい、白い包帯の向こうの紅い肉を想像する。うす黄色いねばった血漿が滲み、その向こうにある肉、そして赤茶けた血にまみれた骨。包帯を解くまでもなく容易に想像できるのは、単純に自分が無免ではあるものの外科医で、幾多もの傷と患者を診てきたからだ。しかし、外科医が傷を想像することなど何もおかしくない。おかしいのは、胸のざわつきだ。狂おしいような、酷く落ち着かないような、触れてはならないものへの憧憬のような、胸の中の内臓の一部に虫が入り込んだかのような酷いざわつきは時折自分を酷く無様な肉の塊にした。何一つ手につかず、眠ることも黙って燻剤を吸い続けることもできず、檻の中にとらわれた猿のように、時折こうしてうろうろと徘徊させた。
嘆息する。一時鳴りを潜めたと思っていた心の病が再び鎌首をもたげてくる、そんな感覚に陥った。眠れなくてもいい、このまま歩き続けて朝を迎える時の絶望に似た諦めを思えば、今すぐに自室のベッドに潜りこむべきだ。そう考えて彼は踵を返した。雷鳴が轟いて、近くの硝子窓をびりびりと振動させた。あなたは、割れ窓理論をご存じだろうか?建築物の窓が一枚でも割れていれば、それは無秩序の最初の兆候、呼び水となり、他のあらゆる環境悪化の原因となる、そういった理屈だ。グラムグナッシュ軍医伍長は割れた窓を見上げた。水滴が洩れ、流れ出している。長年の水滴の跡と埃で曇りきった窓は擦り硝子のようになり、ひび割れて、廃墟の様相を呈していた。しかし、ここでは恐らく最初の兆候は窓ではなかったはずだ。特務部隊……フリークス・ラウンジの現状には、たとえ窓が割れていようといなかろうと何の関係もなかったろう。最初ここへ来たとき、一体何の冗談かといぶかしんだものだったが、次第にそれが冗談ではないと知ったとき、自分はどうしていただろうか。日々新参者を襲うフリークスの下っ端を最初に退けたのはキルチェ=トワ=アンジェラだ。彼女は自分がここへ慣れるまで身の安全を守る代わりに、人肉を裏から流すよう要求し、自分は我が身可愛さにそれに従った。不思議と罪悪感はなく、ただ、鶏でも捌くような感覚で、本部から回された斥候を処理し、彼女やその他へ流した。慣れるにつれ、彼が怖れを次第に取り下げて部隊員たちと対話を試みている事を知ると、途端に攻撃はやんだ。つまるところ、真に臆病なのは彼らであった。キルチェは相変わらず今も肉を取りに来る。
グラムグナッシュは窓から目を離し、廊下の向こうを見やった。数メートル先から光は完全に遮断され、遥か遠くまで続くように見える闇は、それでいて何の恐怖感もない。この道を真っ直ぐに行くと、安寧の地が待っているのを知っている。しかしまだ自分には踏み出す事ができずにいた。聖堂に集う奇人狂人たちは、自らのルールに則って日々を送っている。それが如何に彼らにとって重要で、且つ平穏である事か、自分はそれを目の当たりにしてきたが、それを我が身に適応するつもりにはなれずにいた。要するに勇気が無いのである、何をするにしても、自分には。嘆息して足元を眺めた。蜥蜴が一匹、革靴の先を掠めて暗がりに去った。
その時である。
けたたましい破裂音と共に、窓硝子が粉々に砕け散った。何片かが自分にも降り注ぎ、露出した部分の膚を刺した。驚きのあまり何も言えずに眺めていると、床に獣のようなものが落ちていた。それは人間で、まだ生きていた。硝子の破片がはりねずみのように肉に刺さり、筋肉が収縮するたびに間隔を広めたり狭めたりして、それそのものが別の生物のようだった。続いてもう少し小さい獣が落ちてきた。きらきらと暗がりでも光る目をして、鮮やかな桃色の細い髪が宙を舞う。それはグラムグナッシュには目もくれず、ひたすらに獲物を仕留める事だけに専念していた。彼か、彼女か?グラムグナッシュはそれを知らずにいた。ただ、何者かは知っていた――フリークス・ラウンジの割れ窓である。
クルツワード・スチュウェインズ一等兵。
ラウンジの真の主だ。
ぽかんと口を開けて、かかしのように突っ立って眺めていた軍医伍長は、やがて我に返る。己の立ち位置を理解したのだ。逃げねばならない、今すぐ脱兎となって。クルツワードはたった今は目の前の獲物に夢中だ。しかしいつそれに飽きて自分を歯牙にかけぬとも知れないのだ。当然の摂理だった。しかし、今まで遠くから数度眺めたことがあるだけだったクルツワードは、華奢で身軽で、本当に子供であった。脳の裏側で警鐘を聞きながらも軍医は立ち尽くし、哀れな獲物がもがき狂い、その血で床を染めるのをただ眺めていた。胸のざわつきがひっそりと落ち着き、唾液がじわりと湧いた。そのうちに大変な事に気がついた。クルツワードが獲物の胸郭を開き、動脈を引きずり出したのである。ぶち、ぶち、と肉や膜の千切れる音を聞きながら、一心に血を浴び、クルツワードは何かを引きずり出そうとしていた。背筋に悪寒が走る。それは赤子のように、丸い頭をだす。ああ、と声にならない声が喉から洩れた。クルツワードは幸いにも気づかない。いや、とっくに自分の存在など察知しているのに違いない、唐突にそう気づいた。見世物でもしているのか?
最後の抵抗がなくなり、すぽんと心臓が抜けた。同時に脚の呪縛は解け、グラムグナッシュ軍医伍長は走り出した。暗闇と真逆に向かってひたすらに走った。クルツワードは恐らく追ってきてはいない。しかし、今の今、そんなことはどうでもよくなっていた。自分の足は一体どこを目指して走っているのか?それを考える間もなく、軍医は階段を一段飛びに登り、最上階の端の部屋へ飛び込んだ。一番奥の個室に、フリースローの時のバスケットボールのように収まって、鍵をかけた。自分が一体、今、何をし始めているのか?頭はそれを突き詰めて考える事を拒否している。そうしている間じゅう、肩は上下して荒く呼気を貪り、普段から多汗ではあるものの、それ以上に滝のように汗が流れた。やがてそれは終わりを迎え、頭の中の像が焦点を結んだ。ぱっくりと体の中心に口を開けた肉の襞、その中から引きずり出された赤黒い塊。捻じ曲げられたビジョンはクルツワード・スチュウェインズのきらきらと光る双眸で唐突にぶつりと終わった。
頭が冷えた。
グラムグナッシュは呆然として己の現状を眺めた。
5.
チェシヤ猫のようにのんべんだらりと大樹の枝にひっかかっていた无飛龍は、一連の有様を見物し終えてせせら笑った。3人いた暗部のうち1人は初撃で撃墜し、2人目はクルツワードによって叩きのめされ、下らない終焉を迎えた。例のごとく三つ編みの親玉は危なくなるとさっと引っ込んで逃げてゆく。消えどころをわきまえた役者はいいものだが、部下をそうも簡単に見捨てて――それこそ何人も何人も、自分にとっての兵器の如く消費して、彼女の仕事場での立場というものは揺らぎはしまいか?自分には関係がないが、ただ少し、気にはなった。
気になると言えば軍医の方もだ。でくの坊のようにぼんやりと、ただひたすらにクルツワードの殺人劇を眺めていたかと思えば、突然ばね仕掛けのびっくり箱のように飛んでいった。そうして一体何をするつもりか、本部に通達でもするのかと見ていたら、彼は何のことはなく男子トイレに駆け込んだ。漏らしでもしたのか、見たくもないものを見せられてもつまらないと思い調眼を切り離そうとした途端、彼は自慰を始めた。これは状況的には大変面白いが映像的には全く面白くないので、彼を目で追うのはそこでやめた。にんまりと口端を上げて、堕ちた者の行方を想像する。明日から、軍医伍長は一体どう変わるだろう?むしろ、何も変わらないかも知れない。お堅い彼であるから無かった事にもしかねない。しかし種は初めから撒かれていた。そのことはここにいる誰もが知っていた。軍医は気づかなかっただろうが、みな一様に本能でその匂いを察知していたのである。そうでなければとうに血祭りに上がっていた。キルチェ=トワ=アンジェラが便宜上それを止めてみせたのも、あるいは彼女らの利害にまつわる結託によるものかも知れなかった。そうなれば生真面目で神経質な軍医はまんまと一杯食わされた計算である。高みからこうして見下ろすのは楽しいものだ。
无飛龍は満足していた。眼球は手に入ったし、明日からの愉快な見物の予定も決まった。クルツワードははてさて、どうしているだろうか?思い出して探すと、彼、もしくは彼女は獲物を放置して雨の中へ出て行くところだった。何がしたいのかは見当がつく。雨をシャワー代わりにして血を洗い流すつもりなのだ。どのみち風邪などひかないだろうし、心配するような義理もないので飛龍は放置した。
さて、夜も更けてきた。あれだけ煩かった雷鳴も静かになった。そろそろ寝床に戻らないと、つぎは无夏龍が五月蝿くなる。
6.
雨上がりの爽快な空気の中、居留地間近を掠めて流れる河のほとりの公園にて、メルシー・ルーシーと共に朝食のバゲットサンド(人肉の燻製、バター焼きサーモン、黒胡椒を振ったスクランブルエッグに新鮮なトマトとレタスが挟まっている)に噛り付いていたキルチェ=トワ=アンジェラ二等兵は、唐突に森の奥を目を眇めて凝視した。ちいさなかわいいルーシーは気にもかけず自分のバゲットを食い尽くすと、次にバスケットのなかにあった硝子の容器を取り出し、その中に瓶入りのミルクを注いだ。中に入っていたのは昨夜獲れたばかりの肝臓である。ぷつぷつと繊維や筋が千切れる、たまらない歯応えはやはり生ならではのものだった。いつもなら全部食うなと釘を刺すはずのキルチェは、何を考えているのか、全くこちらを見ない。
「おいなあ、アレ軍医じゃねーの?」
ルーシーは顔を上げる。声帯の不自由な彼女は、髪を跳ね上げるように大きなアクションでキルチェを見上げる事によって反応を返す。キルチェはそちらには顔を向けず、森の奥をただ見つめている。ルーシーも従って目を凝らした。瓶底眼鏡のルーシーの目には、朝でも暗い森の奥に何かが蠢いていることくらいしか解らなかった。キルチェ=トワ=アンジェラの視力はいい。きっと自分には見えないものが見えているのだ。そしてそれは恐らくそこに実在するものだ、八割がたは。彼女は精神疾患は患っていない。フリークス・ラウンジでうまくやっていくコツは2つある。ひとつ、自分を信じること、ふたつ、あまり他人を信じすぎないこと。当然ながら世間の人々は、少しは自分自身を疑ってみるものであるが、ここではそういった客観的姿勢は必要でなかった。ルーシーは飽きて再び肝臓のさいの目切りをぱくついた。舌のうえで、肉塊がとろけて少し幸せになれた。
「ちょっと行ってくる。気になる」
キルチェは手に残っていたバゲットを無理やりに口へ押し込んで、瓶のミルクで流し込んだ。肉の部分だけは口の中に器用に残して、咀嚼しながら歩いてゆくのも忘れなかった。残されたルーシーは顔を明るくして肝臓の残りを眺めている。
キルチェ=トワ=アンジェラ二等兵は決して悪い性質の人間ではなかった(過去には歪みきっていた時期も、もちろんあるにはある)。むしろ特務部隊という環境下に措いては、珍しいほどに真っ直ぐな気性であった。彼女は自ら国陸軍本部の門戸を叩いたが、果たしてそれも彼女のあまりにも単純過ぎる動機のせいであった。人の肉を食らう。およそまともな先進国家ではあり得ない状況を生み出すために彼女が選択した道は、最終的にはそれだった。ここはどんなアンダーグラウンドのクラブよりもインモラルで、確実で揺るぎなく、そして、合法的であった。
今のいま、彼女はあらかたの希望をかなえてここにいる。食人仲間のメルシー・ルーシーは言葉はあまり通じない小動物のような娘だが、妹分として可愛がってはいたし、他のフリークスともそれなりにうまくやっていた。何よりも昔から憧れ続けてやまなかったクリップアーティスト、アンダーグラウンドのマスター、MMR−MURがここにはいるのだ。
ところで、彼女がいま見据えているのは、軍医伍長グラムグナッシュの背だ。群青の頭に草臥れた白衣、見間違えようも無い。メルシー・ルーシーは近視にくわえて強度の色盲でもあるらしく、そのあたりの判別ができないようだが、自分には彼としか思えなかった。朝の早い時間から、軍医が森の中で何をしているのか?古風に薬草探しにでも勤しんでいるのか?いや、ことによってはマジックマッシュルームかも知れない。だがこの森にそういった類のものは自生してはおらず、勿論薬草畑もなかったし、何よりグラムグナッシュ軍医伍長が薬草学を学んでいるという話は聞いたことなどなかった。彼は根っからの、生粋の外科医であった。その理由は恐らく彼よりも自分たちの方が、熟知している。
ちらちらと交差した枝の陰から青と白が見える。ビリディアンと黄緑と黒のコントラストのなかに、突然に北極か南極を注ぎ込んだような、そんな色合いだ。キルチェは歩みを進めた。太股を細い木の枝が軽く掠め、擦り傷にもならない白い痕だけを残した。軍医は動かなくなった。訝しく思って名を呼んでみたが、返事が無い。聞えていないのか、無視しているのか?彼は鬱持ちだ。返事が億劫で、無視する事もあるかも知れない。
しかし、様子がおかしい。近づくにつれて彼の体が中空あたりにあるような気がしてきた。がさがさと茂みをかき分けて進むと、確かに彼は宙に浮いていた。ご丁寧に彼は靴を揃えて脱ぎ、遺書と思しき端書をその脇に置き、赤と白の縞模様のロープで首を吊っていた。もがきもせず、彼はマネキンのように静かに垂れ下がっており、キルチェは呆気にとられ、口をぽかんと開けてしばらくそれを見ていた。
それは長くは続かなかった。きりきりとしなった枝がやがて白い内部を露出させて弾け、結ばれていたロープが外れた。鳥かごの中で居眠っていた鳥がボトリと床に落ちるように、軍医も落ちた。大変こっけいな眺めだったので、キルチェ=トワ=アンジェラは笑っていいのか解らないまま、から笑いした。しかし軍医伍長は落ちたその姿勢のまましばらく動かなかったので、もう息絶えてしまっているのかとキルチェはさすがに心配になって、覗き込んだ。勿論彼は生きている。たった数秒吊られただけでは人間は死ねない。下着が見えるからスカートで目の前にしゃがむのはよせと、彼は潰れた喉でけだるく呟いた。嫌なものでも見たかのような口ぶりにキルチェはむっとして、軍医伍長の襟のうしろを掴んで持ち上げた。
「なにお前、なにしてんの」
グラムグナッシュはこちらを向かなかった。腫れた目のうち、白いところは紅く充血しており、部分によっては彼の瞳と同じような色だった。羊のような表情の無い目をして、軍医は黙っていた。首にほんのりと縄目が残っており、しかし、数十分もすれば消える程度のものだった。白衣は枯葉にまみれ、靴下は泥に汚れ、彼は完全なる無様な自殺失敗者だった。
どんよりと俯いたままで、グラムグナッシュは服を掴み続けるキルチェ=トワ=アンジェラの手を乱暴に払った。年下の、一見単純で悩みの無い未成年の娘(しかも、自分より遥かに身長が高い)に襟首を掴まれつづけるのは単純に屈辱だった。犬の子ではない。キルチェも再び気分を害したようだった。下生えの草の上に胡坐をかいて座り込み、軍医が深く溜息をつくのを、キルチェは立ち上がって腰に手をやり見下ろしていた。彼の態度は時々気に食わない。恐らく彼自身は無意識だろうが、陰で同情を欲しているような態度が見え透いているときが折々ある。
7.
日暮れを待って、地元の酒屋に繰り出した。元々酒を売るだけだった店を、居酒屋のように改装し、ちょっとした料理を出せるようになった店で、席は地下にあるので意外と穴場だった。今日もまだ客席は半数ほどしか埋まっていない。
テーブルの一つを陣取っているのは、キルチェ=トワ=アンジェラ二等兵、MMR=MUR伍長、無理やり連れ込まれたグラムグナッシュ軍医伍長である。とりあえずのビールと通しのチーズで既に五分、暗澹たる空気が席に立ち込めていた。
その空気に屈することなく、マイペースを貫いているのはMMR=MURである。彼は自分のジッポを開閉して遊んでいた。料理が来てから話を始めようという風情だ。キルチェはグラムグナッシュを見て苛々している。グラムグナッシュは誰も見ず、両手であまり中身の減っていないビアグラスを握っていた。外側についた水滴が手を濡らす。
マーレのピザとラムの包み焼きが運ばれてきた。MMRは何も考えない顔で、とりあえず食おうや、と提案し、率先してその言葉に従った。キルチェもまたピザを一切れつまみあげ、軍医だけが動かなかった。彼はまた羊のような目をして自閉している。朝のように充血はしていなかったが、今度はいつもより大きめに隈ができていた。
「食えよ。待ってたんだから」
どこ吹く風でMMRは気軽に薦めた。
キルチェは軍医を睨みつけたままでピザに食らいついている。
軍医は石像のように動かない。
MMRは強く薦めることはせず、放置して包み焼きを切り分けた、口笛でも吹きそうな気軽さで。ラムをぶつ切りにしたところで、サラダも届いた。キルチェが皿とグラスを動かし、サラダを置く場所を造っている隙をついて、軍医は立ち上がり店を飛び出そうとしたが、入隊間もない軍医が歩兵の敏捷さに敵うはずもない。あっけなくグラムグナッシュはキルチェによって席へ連行された。
MMRは遠慮なく好きなものだけを食い分けていく。ジンライムをオーダーし、煙草に火をつけて、少し落ち着いたのか椅子の背もたれに大きく寄りかかって、トレードマークでもあるオレンジのサングラス越しに軍医伍長を眺めた。
「で、何だって首なんて吊ろうとしたんだ?」
リリアンに頼めばそんなんは一発だろ、あいつ大喜びだぜと呟きながらまたジッポを開閉している。その単調な音のリズムは陽気だったが、やや軍医の気分を逆撫でしたようにも見えた。ジンライムはすぐに届き、彼は一息でグラスの半分をあけた。軍医のビアグラスの中身は3/4程度残っていて、彼の手の平でぬるまっていた。キルチェは横目でそれを睨みつつ残りのビールを飲み干す。
「とりあえずも、一応隊内の揉め事の関係は隊長の責任になるんだ。別にお前が死のうが生きようがここを抜けようが勝手だが、俺に理由を聞かせてくれ。フリークスラウンジで自殺なんて逆に珍しくて目立つ、本部に目をつけられると困る」
「……他殺じゃなく自殺が目立つなんて変な話だ」
「そうさ。ここはヘンな場所なんだ」
軍医の呟きはもっともだ。特務部隊では入隊前に精神状態のチェックをされる。薬物濫用者やあまりに精神に異常があり、戦えないと判断される人員を撥ねるためだ。軍医伍長は引っかかりはしなかったものの、入隊以前に精神疾患の履歴が見られた。MMR−MURはそれを知っている。本部からは公には知らされていないが、プロテクトの浅い階層にその情報を置きっぱなしにしていた。狂脳を相手に、それは閲覧許可を与えているのと同義である。情報の受け渡しフォルダと同じような扱いで彼はそれを見ていたので、軍医の経歴はあらかた頭に入っていた。
自殺未遂の理由も勿論、見当くらいはついている。だとしても、理解はできていなかった。キルチェ=トワ=アンジェラが自分を呼び出す以前に、无飛龍から既に仔細を聞いていた。あの不気味なひょろ長い男は、PCモニタの前で寝ていた自分が起きたときには既にベッドに腰掛けてにたにたしていた。一応拒否したことはないが、いつの間にか部屋の中に他人がいるのは、いい気分ではない。それをどう思っているのか知らないが、彼は何らかの結界を自分の部屋に張っているのだろう、時折情報をもたらすために現れた。チェシヤ猫のような男である。自分が不得手であるオフラインの情報を流される限りは放置することにしている。しかし一体彼にとって何の得があるのか不明なあたりが、一番不気味な点では、ある。彼に限って見返りを期待していないわけがないのだ。
とりあえず今はそれを切り札として、利用する。
「大体のことは飛龍に聞いてるんだ。昨夜の一件で何があったか。だが俺には、どうしてそこでお前が首を吊ろうとしたのかまでは解らない。事情を聞かせろ」
「え、何?何の話?昨日なんかあったの?」
「お前は寝ていたかな、キルチェ。ここで詳しい話はしない。プライベートの問題だからな」
軍医の表情がみるみるうちに青褪めるのをMMRは楽しそうに眺める。大体のこととは?一体何をどこまで、そして居合わせてもいない无飛龍が、何故知っている?恐らくそんな類のことで頭が一杯に違いない。この撒き餌は、よく効いた。
「何故?……いや、放っておいてくれ。理由なんてどうでもいい。俺はもうどこにも居られない。家にも帰れないし……、誰に合わせる顔も無いんだ……だからと言ってお前らフリークスと馴染むつもりだって……」
「は、どういうイミだよ、それ」
「絡むなキルチェ。聞いてやれよ」
「………………言い方が悪いのは謝る。しかし……俺にはとてもそんな生き方は、できない」
MMRはジンをあおる。軍医の目は相変わらずじっとグラスだけを見つめており、偏執的に一つの考えに囚われた人間の顔をしているのが暗い店内でもよくわかった。キルチェはオーダーしていたピーチフィズを届けた店員に、今度はシーフードグラタンを頼んでいる。人肉以外の物でも、彼女は普遍的に食べる。メルシー・ルーシーは人肉がらみのメニュー以外は受け付けない。
「お前は床に落ちたパンを食ったことがあるか?」
「……? 一瞬落ちただけのものなら、なくはない、かも知れない」
「おれはいつも食ってたよ。まるきり床が皿だったからな」
軍医伍長の目が一瞬痛ましく、しかし、すぐに苛立ちを含んだ色合いに変化した。
「……それとこれと何の関係がある。それがそんなに偉いのか?」
「そう言ってるんじゃない。生き方のスタンスの話をしてる。お前は床に置かれたパンを食らった経験がないから、手を出す事ができずに餓え死ぬことを良しとするんだろう。俺はそうじゃない。俺は何を食らってでも生きる。生き延びる事が俺の大前提だ」
「…………………………」
「お前がそうじゃないのなら、お前は死ぬしかないんだろうな。しかし……パンは目の前にあるんだぞ。何故食わずに死ぬのか俺には理解できないんだ。食って、それでも無理なら、それからでも遅くはないだろう?」
「MMRは難しい話すんねぇー」
「難しいことかよ、キルチェ。簡単じゃないか」
「……お前らには解ってないんだ。パンを食うことの重要性が。普通の人間から見れば、食うことそのものが取り返しのつかないことなんだぞ。その後のことなんて知った事か!」
軍医伍長は口調を荒げ、そのまま勢いでビアグラスを空にした。そして冷めかけてチーズが固まってきたピザの一切れを乱暴に食っていたが、全て食べ終わらないうちにそれを自分の皿に置き、席を立って店の奥のトイレに潜り込んだ。駄目だありゃ、とキルチェは呟いて届いたピーチフィズを流しこむ。MMR=MURは、相変わらず背もたれに体を預けてジッポを開閉していた。世の中、頑固者は溢れ返っているが、一体それで何を得するというのか。
8.
店を出たのち、MMR−MUR伍長とキルチェ=トワ=アンジェラ二等兵はその場で解散した。どこかのクラブへなだれ込むつもりかも知れない。何にせよ、放っておかれるのは大変有難い事で、グラムグナッシュ軍医伍長はそれに感謝した。もっとも、フリークス・ラウンジでは必要以上の馴れ合いは無用どころか禁忌とされる。彼らにしてみれば日常と変わらぬ対応であった。
食べたものの大部分を吐き戻した胃袋はアルコールも合いまって心地よいものではなかった。しかしながら、MMR=MURの言葉は的確で、穏やかではあったので、話をする以前より精神状態はましになっていた。キルチェのそれを陽とするなら、自分は陰、MMRはそれらを仲介する触媒だった。
MMR=MUR伍長は不可思議な男だった。事情を知らない者にとっては、基本的に変人、奇人の類しか存在しない……どころか、それらを半ば収監・利用する目的で設立された特務部隊に措いて、彼が入隊できた事自体も若干の不思議ではある。一見しただけでは、彼は思考そのものは至って正常であり、一般的な『変わり者』の域にしか見えないからだ。軍医伍長は彼について、狂脳の二つ名、電脳の覇者、キルチェのカリスマ、アンダーグラウンドのマスター、そしてバイセクシュアル、その程度の情報しか持ち合わせていなかった。よもや无飛龍と接に関係して、自分の行動を監視しているなどとは、今までは夢にも。
(おれは、監視されているのか?)
軍医伍長の胸裏を疑念がよぎる。確かに新入りだ、おまけに精神病を患った経緯もある、今でも精神科の処方箋が必要だ。しかし、たかだかその程度である。簡単に目の前で人を殺したり、いたぶったりすることに対して快楽を覚えるような社会的犯罪者の群れにおいて……無論ここにいるのは犯罪者ばかりではないが――しかし、自分の方が確実に、『安全』だ。
だがすぐに考えを翻した。今はどうか?クルツワード・スチュウェインズによって歪められた肉体を見て激しい欲情を覚えた今の今自分は無害な人間だと言い切れるだろうか?MMRは目利きだ、自分の中に酷い変質者の種を発見してしまい、これからそれが開花してここにいる誰よりも酷い状態になる前にそれを食い止めるつもりなのかも知れない。
軍医伍長はシガレットケースを探した。見つからない。白衣の両ポケットをまさぐり、ズボンのポケットも探ったが、目当てのものは見つからずただ以前噛んだガムの包み紙と瓶のレモネード1本も買えない程度のコインしか出てこなかった。
――落としたのだ。
そう思った瞬間に、朝の森を思った。あの首を吊りそこなった朝の河川敷の公園の森で落としたのだろう。それ以外に思い当たる節がないほどに白衣のポケットは深かった。派手なローズピンクは探せばすぐに見つかるだろう、そう考えて翌朝探しに出かける事にした。
帰り着く先は医務室である。医務室はいつも、自分の城であった。初めてここへ配属された日から、異常な隊員達から精神的な意味合いで逃れえることができ、窓硝子を割られたり扉を破壊されない限りは物理的にも孤独に浸ることができた。その医務室に辿りつくと、先客がいた。今は診察時間内ではないが、およそ特務部隊に措いては規定の活動時間というものは無意味であった。しかしながらフリークスの多くは、自ら診察を求めて訪れる程度の怪我とは無縁だ。細かい傷は自分で手当てをするか、もしくは手当てが無意味な程度の致命傷であるか、大概がそのあたりだったのである。
「夏龍」
軍医伍長はそのフリークスの名を呼んだ。薄暗がりで週報を勝手に拝借して、胡散臭げに眺めていたその隊員はすっと面をあげる。フリークスと呼ぶのは少し語弊があろう。彼の名は无夏龍、先述した无飛龍とは双子と見紛う容姿をしている。『彼ら』のそれぞれに初めて遭遇した人間は大抵、あることに気付かない。『彼ら』ではなく、『彼』なのである。无夏龍と无飛龍、このふたりは同じからだに二つの人格を持って生まれている。異常なことでもなんでもなく、彼らの種族は皆、そうなのだと无飛龍は言う。彼らはごく自然に振舞うが、傍目から見ると彼らを隔てるものは眼鏡と顔つきのただそれだけなので(口を開けばその限りではない)、慣れないうちはしょっちゅう折衝を起こした。なお不便な事に无夏龍と无飛龍は不仲なのである。よって各人譲らず、時に周囲を巻き込んで陰湿な喧嘩を繰り広げた――主にそれは弁が立つ无飛龍に分が合った。彼らは脳内でしか直接語り合うことはせず、表に出ている人格は常に片方だけだったので、周囲の目に映る喧嘩とはつまり、風評合戦のようなものだった。平気の平左でものごとを謀る无飛龍に対し、どことなく无夏龍は潔癖な性質のようだった。何を考えているのか誰にも知れない飛龍と比べて幾分かは人間的に見える无夏龍ではあるが、それでも、扱いにくい気質であるのは同じだった。
眼鏡のないほうの无夏龍がここを訪れるのはこれが初めてではない。
「また薬か」
「ああ」
飛龍も夏龍も、体が一つなので当然のことではあるものの、両者頭痛持ちだった。心因性のものであるのか、はたまた脳の負担によるものかは定かではないが、いつからか軍医は彼らに頭痛薬を処方するようになっていた。主にここを訪れるのは夏龍であった。飛龍とのいさかいには激情を示す夏龍ではあるが、普段は物静かで人を嫌い、いくらか不機嫌なときが多かった。
彼はフリークスではない。
その事実は隊内でも知れた事実であり、しかしながら彼自身の実力ともう一方の人格への畏れから、彼がフリークスの餌食になるようなことはまず無かった。しかし彼は目に見えて孤独だった。グラムグナッシュ軍医伍長は始め、彼を数少ない味方にできないかと期待したものだったが、无夏龍は決して近づきすぎることなく接した。彼と深い交友があると明言できるのは今のところ、キャンドルボウイという発火症の棒のような少年だけだった。
軍医伍長は突っ立っている長身の无の脇をすり抜け(彼とはかなりの身長差がある)、施錠してあったドラッグカラムの扉を開いて鎮痛剤を取り出した。カルテに処方の事実を書き入れ、夏龍に手渡す。
「キャンドルボウイの具合は、どうだ?」
「酷くはない。あれ以来発火もない。安定している」
「そうか」
たったそれだけの言葉を交わして、夏龍は出て行った。軍医は待合の椅子に小柄な体をずっしりと沈み込ませた。胃の腑に落ちていた不安が、きりきりと食道を這い上って、喉を締め付ける。
9. 時は少し戻り、クルツワード・スチュウェインズ一等兵は珍しく食堂で夕刻の食事にありついていた。少し遅めの時間帯であり、書類仕事で残業をした士官などが多かったが、隅には夜間訓練までの時間を持て余してたむろしている者達もいた。
クルツワードはまずオムレツにナイフを入れる。トマトとベーコンのオムレツ、ソースは魚卵が含まれている。どれも好物だ。上に載っていた一枝のパセリだけは嫌いなので、皿の端に避けた。
スープはじゃがいものヴィシソワーズ、それにシーフードピラフ。体の小さなクルツワードには、これだけで一日分のエネルギーとしては充分だ。クッキーやチョコレート、キャンディでも普段からカロリーを余分に取っている。それでもクルツワードはなかなか成長しない。体の大きさ、骨の太さ、肉付きなどは数年変化していないと言っていい。クルツワードのことをよく知る者であれば、それ以前からそうであることも知っているだろう。
これがクルツワードに許された形なのだ。
オムレツを半分食べたとき、水を飲んだ。コップを置いたとき、窓の外の廊下のあたりで稲光が走ったように思った。違った。誰かがサイレンサー付きの銃で発砲したらしい。クルツワードは意に介さない。ピラフをすくって口に入れる。生焼けのパプリカが甘い。
「てめぇ!!」
大声が聞こえた。続いて壁にドンと衝撃の加わる音。煉瓦造りの聖堂と違って、ここは新規施設内でごく一般的な厚みの壁で囲まれている。人体が叩きつけられるような、そんな音だった。先刻の銃声も相まって、数人が野次馬として様子を見に行く。